江戸幕府(徳川幕府)
【征夷大将軍一覧】
秀忠を除く十四名が征夷大将軍と同時に源氏長者に任じられ、没後に正一位を贈られている。ほとんどが、生前または没後に太政大臣まで昇進している。ちなみに15代の将軍のうち、家康、家光、慶喜以外は側室から産まれた者が将軍になっている。
1
徳川家康 (イエヤス)
[在職]
慶長8年(1603年)2月12日 - 慶長10年(1605年)4月16日
[享年] 75
[墓所] 日光東照宮
※戦国時代に三河国岡崎に生まれ、人質として忍従の日々を過ごすが、桶狭間の戦い以後、織田信長の盟友として版図を広げ、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、その混乱に乗じさらに勢力を広げ、海道一の弓取りと呼ばれた。
◆豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従い、豊臣政権の五大老筆頭に列せられるが、秀吉の死後は関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府(江戸幕府・徳川幕府と呼ぶ)を開いた。
2
徳川秀忠 (ヒデタダ)
[在職]
慶長10年(1605年)4月16日 - 元和9年(1623年)7月27日
[享年] 54
[墓所]増上寺
※徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれる。文禄4年(1595年)には信長の姪で豊臣秀吉の養女の於江与(父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市)と結婚。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられたが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった。
3
徳川家光 (イエミツ)
[在職]
元和9年(1623年)7月27日 - 慶安4年(1651年)4月20日
[享年]48
[墓所]輪王寺
※二代将軍秀忠の次男。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる於江与(姉は、淀君)。乳母は春日局(明智光秀の家臣⇒斉藤利三の娘)
◆徳川十五代将軍のうち、正室の所生は、家康・家光・慶喜の三名のみである。(御台所=将軍正室が生んだ将軍は家光のみ)
4
徳川家綱 (イエツナ)
[在職]
慶安4年(1651年)8月18日 - 延宝8年(1680年)5月8日
[享年] 40
[墓所] 寛永寺
※家綱は生まれつき体が弱く、しばしば病気にかかっていた(生まれつき発達障害があったという説も)為、晩年には幕府財政の悪化、大老酒井忠清の専制を許し、幕府の勢威のかげりの端緒を招いた。生来病弱で40歳で没するが、子はなく、大老酒井忠清は源実朝の没後にならい祖父・秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしていたとも言われるが、堀田正俊の勧めにより、延宝8年5月、末弟の綱吉を養子に迎え、将軍後嗣となった。
◆また、政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「さようせい様」「そうせい様」という異名が付けられた。
5
徳川綱吉 (ツナヨシ)
[在職]
延宝8年(1680年)8月23日 - 宝永6年(1709年)1月10日
[享年] 64
[墓所] 寛永寺
※3代将軍家光の4男、幼名は徳松。母は京堀川の八百屋お玉(桂昌院)。
◆生類憐みの令、忠臣蔵
6
徳川家宣 (イエノブ)
[在職]
宝永6年(1709年)5月1日 - 正徳2年(1712年)10月14日
[享年] 51
[墓所]増上寺
※甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・天英院熙子。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。
7
徳川家継 (イエツグ)
[在職]
正徳3年(1713年)4月2日 - 享保元年(1716年)4月30日
[享年]8
[墓所]増上寺
※第6代将軍家宣の四男。母は浅草唯念寺住職娘月光院。徳川の旧称、世良田を一時期称する。別名世良田鍋松。徳川15代の中でも最年少で将軍になった将軍である。
8
徳川吉宗 (ヨシムネ)
[在職]
享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日
[享年] 68 寛永寺
※徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の4男として生まれる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・家継の死により徳川将軍家の血筋が途絶えると、先々代の6代将軍家宣の正室である天英院に指名され、宗家以外からはじめて江戸幕府8代将軍に就任した。
[
将軍誕生秘話
]
9
徳川家重 (イエシゲ)
[在職]
延享2年(1745年)11月2日 - 宝暦10年(1760年)5月13日
[享年] 51
[墓所]増上寺
※八代将軍吉宗の長男。母は側室大久保氏お須磨の方で、幼名は長福丸(ながとみまる)。家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている。障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠もりがちで酒色にふけって健康を害した。このため、文武に長けた次弟の田安宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣をさんざんに悩ましたが、結局、長子相続ということで、延享2年11月2日(1745年11月24日)に将軍職を譲られた。しかし宝暦元年(1751年)までは、吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承はその実子・家治が非常に聡明であった事も背景にあった。
10
徳川家治 (イエハル)
[在職]
宝暦10年(1760年)5月13日 - 天明6年(1786年)9月8日
[享年] 50
[墓所]寛永寺
※第9代将軍家重の長男で、母は側室の梅渓通条の娘(至心院、幸子、お幸の方)。幼名は竹千代。
◆江戸城に生まれる。幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。家治は学芸の才能に恵まれ書画を得意とし、宝暦10年(1760年)に将軍職を継承し、父の家重の遺言に従い田沼意次を側用人に重用し、老中の松平武元らと共に政治に励んでいたが、意次が老中になると、政治を意次にまかせ好きな将棋などの趣味に没頭することが多く、結局祖父の期待には報えなかった。
11
徳川家斉 (イエナリ)
[在職]
天明7年(1787年)4月15日 - 天保8年(1837年)4月2日
[享年]69
[墓所] 寛永寺
※御三卿の一橋家2代当主徳川治済の長子。母は側室の慈徳院。幼名は豊千代。第8代将軍徳川吉宗の曾孫。
◆幼少期から異様な性癖があったと伝えられている。蟹や鶏を相手にして踏み潰したり殴り殺したという残虐な逸話がある。しかし、安永8年(1779年)に家治の世嗣・徳川家基が急死したため、父と田沼意次の裏工作、並びに家治に他に男子がいなかったため、第10代将軍・徳川家治の養嗣子になり、さらに天明6年(1786年)に家治が50歳で急死すると、翌年15歳で将軍職に就任した。治世の初期、田沼意次を廃して白河藩で名君の誉れ高かった松平定信を老中に登用して寛政の改革を推進、綱紀の粛正を図った。
◆特定されるだけで40人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人の子をもうけ、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。また、家斉にはそのほかにも妾がいたとも伝えられており、御落胤は数知れず、それら膨大な子供たちの養育費が、逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。
12
徳川家慶 (イエヨシ)
[在職]
天保8年(1837年)4月2日 - 嘉永6年(1853年)6月22日
[享年]61
[墓所]増上寺
※寛政5年(1793年)、江戸城に生まれる。天保8年(1837年)、46歳で父徳川家斉から将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 父・家斉の死後、老中首座の水野忠邦を重用し、天保の改革を行わせた。
◆忠邦は幕府財政再建に乗り出し諸改革を打ち出したが、徹底的な奢侈の取締りと緊縮財政政策を採用したため世間に支持されなかった。また言論統制も行い高野長英や渡辺崋山などの開明的な学者を弾圧した(蛮社の獄)。
13
徳川家定 (イエサダ)
[在職]
嘉永6年(1853年)11月23日 - 安政5年(1858年)7月6日
[享年]35
[墓所] 寛永寺
※文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。家慶の子の多くは早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。しかし、幼少時から病弱で、人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われている。その為、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。一説には、脳性麻痺であったとされる。
◆天保12年(1841年)に祖父で第11代将軍、大御所であった徳川家斉が薨去したため、第12代将軍・家慶の世子となる。しかし父の家慶は、家定の器量を心配して、一時は徳川慶喜を後継者にしようと考えたほどである。だが、老中の阿部正弘らが反対したため、結局は家定を世子とした。
◆嘉永6年(1853年)、父・家慶がアメリカのペリー提督来航の最中に病死したため、後を継いで第13代将軍となった
14
徳川家茂 (イエモチ)
[在職]
安政5年(1858年)10月25日 - 慶応2年(1866年)7月20日
[享年] 21
[墓所]増上寺
※正室は孝明天皇の妹・和宮親子内親王(静観院宮)
◆はじめ御三家紀州藩主であったが、嗣子の無い第13代将軍・徳川家定に最も近い血筋の人物であるとして、井伊直弼ら南紀派の支持を受けて第14代将軍となる。
4歳で紀州藩主に、13歳で第14代将軍となった。
◆血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣からの信望厚く、忠誠を集めたと言われている。
15
徳川慶喜 (ヨシノブ)
[在職]
慶応2年(1866年)12月5日 - 慶応3年(1867年)12月12日
[享年] 77
[墓所] 谷中霊園
※徳川慶喜の葬儀は神葬祭により執り行われたため仏教寺院には、葬られなかった。また当然、戒名の院号は、存在しない。
※徳川御三家の1つである水戸徳川家九代藩主の徳川斉昭の七男として、天保8年(1837年)9月29日に水戸藩上屋敷(東京都文京区)に生まれた。母方の伯母に徳川家慶の御台所である楽宮喬子女王がいたため、早くから次期将軍候補であったとも言われる。1847年(弘化4)に御三卿の一橋家を相続し、元服を済ませ12代将軍の徳川家慶に拝謁し、「慶喜」と改名する。
※二条城で大政奉還
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